【ダイグロシアの収斂】
白と黒。
音を立て、盤上に映り込む影が形を変える。
事の起こりはとるにたらない、些細な出来事であったに違いない。遥か昔から両者の遺恨は深かったから特別な理由は要らなかった。不満は高じれば怒りとなり、抑え込まれた激情は捌け口を求め唸りをあげる。
日々の暮らしの中で受ける不当な扱いに鬱積を抱えた者は少なくなく、呼びかけにこたえ国中のゴブリンが一斉に蜂起するまでそう時間はかからなかった。
英国で勃発したゴブリンと魔法族双方の歴史に記録を残すこととなる革命にして反乱。その最大の拠点となったのはホグズミードという名の北の村である。山岳地帯で細々と暮らしを続けるゴブリン達が合流し、村に集結した軍勢は一気に膨れ上がった。物陰に身を潜める住民達を兜の下から睨みつける幾つもの金の瞳が、闇夜に爛々と輝いた。金属同士がぶつかりあうけたたましい音を立て銀の鎧を身につけた者達は通りを行進していき、村の旅籠に立てこもった。
魔法族はただそれを手をこまねいて眺めていたわけではない。対策が練られたのも、計画が立てられたのも、決起がすみやかに成されたのと同じくすばやかった。秘密裡に飛ばされた梟はつつがなく役目を全うし、村の程近くに位置する英国有数の魔法学校であるホグワーツへ事態の説明と援軍要請をつたえる。
かくしてここに闘いの火蓋は切って落とされた。
張りつめた空気のなか、しかし事態の収束は誰の目にも容易に思えた。長きにわたり魔女狩りの脅威にさらされ続けた者達が教師であると同時に優秀な戦士であったことは疑うべくもなく、加えて彼らには地の利があったから。ホグワーツとホグズミード、互いを行き来するための隠し通路の存在である。通路を抜け、要所を叩き、一息に制圧する。士気を高めた軍勢は攻めのぼり、必ずや反乱をすみやかな収束へ導くだろう。
器を打ち鳴らし意気揚々と、勝利の予感に皆は杯をかたむけた。汚らわしい、ヒトの足元にも及ばぬ愚かで卑しい生き物。誰もがそうゴブリン達をみくびっていた。
その誤算は翌日の夕暮時に明るみに出ることとなる。
蜘蛛の巣をかき分け、土埃を抜けた先。待ち構えていたゴブリン達は斧や剣や棍棒をふるい、破壊の限りを尽くしたのだった。
両者はぶつかり合い火花を散らしながら戦った。あらゆる魔法を弾く剣先に、打ち消す銀の盾。苦戦を強いられ、傷を負った者もあった。調度品は手当たり次第に打ち壊され、壁は崩れ、屋根に次々と大穴が空いた。
物を打ち壊す雷鳴のような轟音と唸り声、呪文が空気を裂く音、どちらのものともわからぬ呻き声がその夜を埋めつくしたという。
夜明けと共に収束した騒乱の負傷者は双方おびただしい数にのぼり、村は面影なく荒れ果て、こうして魔法族とゴブリン、両者の間にはいっそう深い確執が生まれたのだった。
「実際はそこまで大げさなものではなかったらしいよ」
黒騎士が馬を駆り、歩兵の頭上を軽やかに越え着地する。
蹄の進路を阻むように、踝まである白いローブを纏った老人が重々しく一歩進み出る。一七世紀当時に記された散文には大仰な表現が多くみられ、事実が湾曲、または誇張されているのが常だ。分厚い本の中身を淀みなく読み上げ続ける機械──まだまだ改良の余地がありそうだ──を杖を一振りして止める。装置と動力源とを繋ぐ歯車が動きを止めたのを確認し、姿勢を戻して続ける。「勿論、大変な戦いであったことは間違いないけど」
甲冑をまとった戦士が足を交互に上げながら前進し、目的地で踵をそろえて静止する。少しの綻びすらもない動作。熟練した職人の手によって息吹をふきこまれた証がそこにはあった。
「より公正な視点から書かれた文献にはこうある」
Nc5 dxc4 26. bxc4 Bxc4、羊皮紙の上に淡々と道筋が記されていく。黒衣と白衣を身につけた聖職者同士が向かい合い、手にした長い杖をふるい一方を打ちすえる。
「彼らの指導者である王の身柄をおさえた途端、ゴブリン達の抵抗はぴたりとおさまったんだ。それまでの戦いがまるで嘘だったみたいにね」
──王。王冠を戴くことを許された駒へと目を向ける。剣の柄を両手にしっかりと握って立つ不動の姿。魔法使いには縁のない、だがゴブリンにとってそれは種族としての誇りを象徴する存在であり、卓越した技をもつがゆえに頂点の座に立つ唯一無二の存在だ。容易く手放せるものでも失えるものでもない。彼らの財宝に関する考え方はここにもみてとれた。損得勘定に長ける寡黙で気難しいかの者達は、その点、他のどんな種族よりわかりやすい。彼らは勝利と引き換えに誇りを守り抜いた。少なくとも、自分達が何者であるかは見失わずに済んだ。……
しばしの沈黙があった。ペン先が音を立て、戦況を羊皮紙に記していく。正面に座る彼はというとそれらを意に介した様子もなく、背もたれに体をあずけたまま──見たところ、次なる一手ではない、何か別の考えに思いをめぐらせているようだった。
「もし王を殺してしまっていたとしたら──」
「あるいは拘束に失敗していたとしたら」 彼が引き取る。頷いて先を続ける。
「被害はもっと甚大なものになっていて、彼らと僕達の関係は今以上に深刻な問題を抱える羽目になっていた可能性だってある」
相手の隙を狙って攻撃する。跳び退り、反撃の機会を窺う。そうと知られぬよう罠を張り巡らす。命のやりとりの持つ意味は、後になって明らかになる。
明らかになる時まで決して倒れてはならない。
城壁から放たれた弓矢が先陣に立っていたビショップへと容赦なく突き刺さる。罅の入った場所から崩れ落ちていく。 落下してきたビショップをゆっくりと片手で受け止めて弄びながら──ゲラートは微かに口の端をあげて笑った。
生ける者は中に、死した者は外へ。掟に従い無数の細かな破片と化した駒は盤の外へと去り、そこで形を取り戻す。伸ばされた指先、駒を持ち上げる優雅さと、無造作に指で弾くさま。その対比は杖の扱いにも似て、向かい合う対局者の性質を浮き彫りにする。
「不幸なことに、現実はゲームのようにはいかない」
よどみない流れの中で互いの思惑を読み合う。
牽制と侵略の連続によってのみ保たれるものがある。
「ああ。戦いが終わったからといってそれで終わりじゃない」
白と黒の趨勢が揺らぐ。
「そこからが本当のはじまりなんだ」
◇
駒の向かう先、その道筋を頭の中で奔らせる。時計の針の許すぎりぎりまで思考をこらし、弾き出した仮説に基づき最善手を打つ。不確定な推論の連続だ。ほんの少しの揺らぎが思いもよらぬ展開を引き起こし、予測もつかない結果をもたらす。気がつけばいつもそんな風に考えている。そんな筈はないのに、何故か彼との会話は途方もなく大きな選択肢を常につきつけられているような気分になった。
「ポーンをd5へ」
「ポーンをd5へ」
「ビショップをe2からg4へ」
ナイトが盤上から退場。
「ポーンをg4へ」
「ナイトをg3へ」
夏の日差しが、頭上にひろがる葉の隙間から降ってくる。
「ビショップをb4へ。集団には必ず中心となる場所がある。まずはそこを叩く──こんな風に」
一飛びに敵陣の前に踊り込み、力を示す。
「効果覿面だね」
杖先の狙いはいつもながら些かの狂いもなかった。
顎を反らして短く笑い、杖を引くと肩まである金髪を揺らして立ち上がった。
「敵の不意をつくんだ。体勢をととのえる隙を与えるな。有利な状況は自分から作り出せ」
草を踏みしめて、木陰の外へと出て行く。
「どれだけの損害を受けたのか、どれだけの損害を与えたかわかれば、やるべきことは自ずと見えてくる。むやみに力をふるう必要なんてない」 なにより、そうすることで──振り返った彼と視線が交錯する。唇には笑みが浮かんでいた。
「戦いが終わった後、ずっとやりやすくなる」
──力の行使は必要最小限にとどめ、それ以上であってはならない。
忠告は思った以上に効果を上げているようだった。
「キングをe1からg1へ。ルークをh1からf1へ」
「俺が君でもそうしただろう」 腰に手を当てながら機嫌よく彼が言う。「ビショップをc3へ」
bxc3、黒のビショップと白のナイトが脱落する。
「君の思慮深いやり方は実に理にかなってる」
「……無論、時には君の大胆きわまりないやり方こそが功を奏すこともあるよ。状況は刻々と変化する。大事なのは匙加減だ」
素直な賞賛に、気分が上向いていくのを抑えられない。
「僕らはそれを常に頭に入れておく必要がある」
結局その勝負は決着がつかず、引き分けとした。ゲームの展開を記録した譜を前に分析を繰り広げ、議論し、他愛もない話をする。提案される策は揃いも揃って突飛だったから、退屈な思いをすることはなかった。行き当たりばったりだと指摘すれば、君は机の上で物を考えすぎると混ぜ返され、そんなさまを釣り合いが取れてる、と彼は笑いながら評した。何か言い返してやる代わりに、ため息をついて頬を緩めた。
「君の勇敢さはもう十分すぎるくらい知ってるよ」
抑揚のきいた声が、夕刻の迫る部屋の中で一際現実味を帯びて響いていた。隣で本を捲る音が心地よかった。手元の羊皮紙へと目を戻しながら──幾度となく繰り返した確信が再び胸を満たしていく。勇敢という言葉は、おそらくは彼のような人間のためにある。誰もが避けて通る道を、彼は怯むことなく選べる。躊躇いもせず進んでいく。不思議とその歩みにあわせ道が開けるようだった。それ程までに彼の歩みには見る者を惹きつけ平伏させるだけの力があるのだ。いつしか誰かが語った言葉がある。本を捲るさなかに見出した言葉がある。世の中を変えられる者は限られていて、ごく僅かしかいない。「君は選ばれた人間なんだ」……そんな言葉を受け取るに相応しい人間に、現実に出会ってしまったことを。そんな人間の力の一部となる喜びを、幸福と呼ばずしてなんと呼ぼう?
ゲラート。
魔法省のアトリウムには大きな噴水があって、泉には杖を掲げる魔法使いと魔女、そして、それを下から恭しく見上げるケンタウロス、ゴブリン、エルフの姿を模した像が並べられている。
その泉は魔法族の同胞の泉、と名付けられている。想像して貰えればすぐわかる通り、当局にはこの件に関するなかなかに過激な投書がひっきりなしにふくろう便で寄せられている。(といってもそれを上回る数の職員が毎日この前を素通りしているという事実は動かしようもないが。) とんでもない侮辱だ、種族同士のいさかいを招きかねない、こんな悪趣味な代物は今すぐにでも他所にやってしまうべきだとね。
僕自身の考えは以前にも話した通りだが、いま一度君の言葉を拝借しよう。疑う余地なく、強者が弱者の上に立つことは必然であり、成り行き上まったく自然なことだ。理にかなっていると言ってしまったってかまわないだろう。誰がなんといおうと、それが可能な限り多くの者達を救う最良の手段であることは疑いようもない。
僕達には彼らを導く使命がある。
変身術の本質は支配だ。理解し、掌握し、変容させる。抵抗をものともせず相手の姿形を根本から変えてしまう。通常の呪文と変身術の間の線引きは初級教本に書き記されている程、明快ではない。かといって難解でもない。確かに言えることがひとつある。特定の対象にみずからの意思を強要する。その目的に魔法の真価を見出すならば、変身術は我々が行使するあらゆる技の中で最も強力な手段であり、かつ最も根源的な性質を備えている。
「物の考え方が根本から違う相手と話し合いで決着をつけるのは残念ながら限界がある。かといって正面からぶつかり合うのは得策じゃない。そうすると、ちょっとした工夫が必要になってくる」
杖規制法の成立に、1612年に勃発したゴブリンの反乱は大いに貢献することとなった。ヤードリー・プラットの引き起こした未曾有の大殺戮以降、ゴブリンに同情の目を向けていた一派でさえもこぞって賛成に票を投じる結果となり、反対派を完膚なきまでに捻じ伏せ可決。皮肉にもゴブリン達の行動は完全に裏目に出たことになる。それから数世紀を経た今日においてもゴブリンの権利問題は未解決のままで、不満を募らせる者は多い。未解決、彼らは口々に唱える。声高に糾弾する。事実だ。そして事実というものは、往々にして真実の一端を含んでいる。
「身の丈に合った働きをさせるにはどうすればいいか、こうして偉大な先人達が教えてくれる」
部屋の中を靴音を立てて歩き回りながら、彼は話した。身振りをまじえながら視線だけはこちらに向けて。音楽のような継ぎ目のない滑らかな動きを伴い、目の前を横切っていく。鼓動が高まっていくのが否応なしにわかる。
誰に。何を。問うまでもない。
掲げられた掌が翻る。
差別の撤廃を求める勢力が各地で誕生した。小規模な混乱や抗議があった。それでも続いた100年の平穏を、誰も無視することなどできはしない。魔法使いが頂点に立つことで生まれた、この種族間の均衡の上に築かれた魔法界。それが存続するに値する在り方だと、今この時代に誰もが気付きつつある。生き物が生きていく上で必要な事柄はさほど多くない。安心は与えられた役割の上にこそ磐石に築かれる。自由を、彼らがすすんで捨て去る日は迫っている。遠くない先の未来、手を伸ばせば間違いなく届く、もうすぐそこまで。
檻はいらない。まるで鳥のように腕を広げてみせながら、そう彼は語った。
異論の余地はない。
「どうしても入りたいというのなら、用意してやってもいい」
窓際から差す夕日を遮り、影が輪郭を鈍く滲ませながら床に長く伸びていた。直視していられなくて俯いて、彼の影に向かって話しかけようとして──まるでそれが何かの予兆のように感じられて、少し迷った後、顔を上げた。眼鏡越しに眺めた彼の表情は、やはり逆光で遮られて薄闇に沈んでいた。
ひとつの目的、目標をひとつになって実現するためには、幾つかの条件を満たす必要がある。
「素直に聞いてくれるものかな。彼らに、すすんで檻の中に入れと言って聞かせたとして」
言葉には限界がある。
差し出せる腕には限界がある。
「聞くさ」 瞳が愉快げに細められた。「他に何ができる?」
「……確かにね」
他に何ができるだろう。他に何ができただろう。彼のために何をしてやれただろう。
私は目を閉じたのだ。
◇
盤上を支配した者が勝利を手にする。そのためには信頼を得ることが必要不可欠だ。多すぎても少なすぎてもいけないし、大きすぎても小さすぎてもいけない。量り間違ってはならない。いうまでもなくそれらを常に把握しておく必要がある。隅々まで目をくばること。欺きとおすこと。見抜かれてはならない。目的が達成されるまで気取られてはならない。幾重にも念入りに策を講じておくこと。敵の裏をかき、足場を突き崩し、喉元に剣を、──杖をつきつけよう。
より善きもののために。
そのためならば、何を引き換えにしようともかまわない。
何にも先立ち、犠牲は払われなければならなかった。たとえどんなに愚かであろうと、どのような代償がもたらされようとも、そうしなければ救えないものがある。望まれる者達のために、望まれない者逹がいる。
空は不吉なまでに赤く染まり、まるで燃えているようだった。
黒の軍勢を喰い止めようと、白のルークが趨勢を押し戻す。長衣を纏った女王が後ずさりチェックをかける。白のキングには前進するほかに手は残されておらず、その眼前にポーンが立ち塞がる。退路を断たれたキングを前にして指せる手は――幾らでもあった。だがいずれも決定的な打撃を与えられはしない。つまりそれは同時に、終わりなき逃走劇の始まりを意味していた。
勇ましい足音は遠くへ消えていき帰ってこなかった。大勢が傷ついて血を流し、倒れ、その行いは止められないかのように思えた。見間違えようもないあのまなざしと声。形をなくした思考が邪魔をして盤上の行く末が見通せない。そうしている間にも犠牲は増えていく。指の隙間から砂がこぼれ落ちていく。
ゲラート・グリンデルバルドの存在は脅威だ。
彼の歩みには群集を惹きつけ、意のままに従えるだけの力がある。生ける屍達は濁った眼球を剥き、見定めた目標を四方から取り囲んだ。逃げおおせた者はいなかったと聞く。とらえた者達を、彼は殺しはしなかった。
だがそれも数年前までのこと。
盤上を流れるのは血、踏みしだくのは骨。5年の歳月の内に失われた命の重さ。目を閉じながらも、ぬかるみに足をとられながらも、探り、問い続けていた。何故手を下さなくてはならなかった。殺すことで失われるものの大きさを、君が知らぬ筈はない。
遥か南の空が燃えていた。
多くの人間が死に続けていた。
海を越えた向こうにあるのは無残にも崩れ去った理想の成れの果て。あらゆる感傷も、癒えることのない傷痕も、彼と共にあった。
空を裂く音がして相次いで火の手が上がった。暗い色をした炎は尾を引いていつまでも夜空に燻るようだった。街から明かりが消えた。──暗闇から響く声の調子はまるであの頃と変わらなかった。傷つけてやろうか。君の家族から、友人から、君が守ろうとしている人間すべてをひとり残らず。
まるで、はじめからそんなものには関心がないのだろうとでもいうような口ぶりで。立ちすくむ前で炎に照らし出された金髪が揺れ、瞳が残忍に細められた。こちらが応えて何かを発するとは端から思ってもいないような、遠慮のない足取りが近付いてくる。黒々としたローブとマントが風にたなびき、老獪な口許が引き延ばされ笑みの形をつくる。
杖が振り上げられる。
「君が何を恐れているのか、当ててみせよう」
黒騎士の剣戟が白騎士の盾を砕き、まっすぐに胸を突く。抜き払った切っ先の前に崩れ落ちる兵士の影から残る一頭の白馬が走り出、嘶きをあげて敵陣に睨みをきかす。剣先は僅かのぶれもなく黒の王冠へと向けられている。サクリファイス。唯一の策にして最善策。躊躇うことはない、勝利に繋がるためならばいかなる手だろうと厭うことはない。傍らで罅が入る音、続けて砕け散る音。放射状に広がった白檀が盤上を滑り、机の上でひとりでに組み上がる。割れたカップも破れた羊皮紙も元通りになる。砕けたものは元通りになる。壊れたものは全部帰って来る。
死者はよみがえらない。
◇
──僕が殺したんじゃない。
あの時、彼女はどこまでも澄んだ瞳を驚きに見開き、ゆっくりと後ろに倒れていった。瞬きひとつしない瞳はまるでガラス球のようで、もう二度となにも映さない。淡いブロンドの髪が床に広がって、青白く痩せ細った腕は奇妙な角度に捻れたまま二度と動かなかった。人並みの幸せを感じる心すら奪われたあの子があんな風に死んでいっていい筈がなかった。
「ああ、君は妹を殺してなんかいない」 酷く優しい声がいつの間にか間近で聞こえた。顔を上げることができない。手足が震え、立ち上がることすらもかなわない。正面に立つ気配が、微かにローブの衣擦れを立てながらゆっくりと屈み込んで膝をつき、続いて彼の声で囁く。
「君はアリアナを愛してた」
胸の内に熱い感情が溢れ、息が詰まった。胸をおさえて身を捩る間も痛みが体中を駆け巡る。苦痛をやわらげるように肩におかれた手はあたたかった。「俺にはわかる。君には彼女を見捨てることなんてできなかった。最後の最後まで」 慰めるように注がれる言葉をどれだけ望んだだろう。愛していた。これから先もずっと愛している。彼女のことを忘れることは決してない。その生きた証に触れる度に鮮明に思い起こすだろう。小さなてのひらの溶けるような柔らかさも、抱き上げた身体の壊れてしまいそうな軽さも、無邪気な笑顔も。そう繰り返し自分に言い聞かせることで、過去の罪から一時でも目を背け、逃げられるとでもいうかのように。胸の前できつく握り締めた拳を彼が優しく解きほぐしていく。涙があふれ頬をつたった。アリアナ。たったの14年しか生きられなかった、可哀想な、「──可哀想なアリアナ・ダンブルドア」
まるで歌うかのように、鋭いナイフを深々と刺すように。向けられた瞳に宿っているのは果たして悪意だっただろうか。それとも──。
「あれを君が殺せるものか」
紛れもない、あざけるような響きを滲ませて。
不意に視界が大きく傾き、胸を強く突き飛ばされたのだと気付いた時にはもう遅い。落ちていく。離れていく掌に、指先に滑稽にも縋りつこうと伸ばした指先は届かなかった。高笑いの響く深い闇の中をどこまでも落ちていった。
◇
目の前には皺の寄った手があった。血の気の失せた老人の手。机上にある銀製の道具に映る姿は醜く歪み、赤褐色の髪と髭は褪せて精彩をなくし、頬は幾分かこけ、目元には深い皺が刻まれた。老いは着実にこの身を蝕んで、あれから気の遠くなる程の長い時が流れた。
何十年もの月日が。
思い返す。封蝋をほどこす手は自分のものとは思えぬ程にこわばっていた。この手紙を出せば最後、決して後戻りすることは許されない。結末はただひとつしかない。彼を止められる人間がただひとりしかいないように。かくしてここに闘いの火蓋は切って落とされ、そして終わる。
双方のクイーンが距離を測るように睨み合う。剣を鞘から抜き放ち、城壁を打ち壊した騎手を白のキングが一撃のもと斬り伏せる。手段を選ばずに進むというなら、あらゆる盤上の駒をもって迫ろう。赤々と燃える炎によって死者の軍勢はあぶりだされ、まやかしの生の擬態に終わりがもたらされる。統率はいまや崩れ去り、陥落は近い。ほどなくして彼に杖をつきつける光景は現実のものとなるだろう。膝をつき、顔を伏せて──表情は陰になったまま見えない。数え切れない罪をおかした彼は裁かれ未来永劫消えることのない汚名を残し、対する自分は英雄として高らかに謳い上げられ賞賛される。栄えある勲章の受賞者に名を連ねる。歴史に名を残す。いつの日かそう渇望したように。
すべてが予感した通りになった。より善きもののために在るべくして成すべきことを為し、黒のキングは打ち倒され、右腕を砕かれ剣を奪われた。この手で取り上げた。長く続いた争いに終止符が打たれたことに皆こぞって喜びの声をあげ、祝祭の準備に街は活気づき、色とりどりの火花が方々に打ち上げられた。きみを誇りに思う、そう言って長く白い髭をたくわえた老人が微笑む。Mのアルファベットを象ったバッジを胸元につけ、正装を身に纏った者達が作る列の中に、古い友人の姿がある。今は御馴染みのトルコ帽子を脱いではいるが──満面の笑みを浮かべ、喜びを隠し切れない様子に、私は笑顔で応える。正面には壮年の男が両腕を広げ、柔和な顔に暖かい微笑みを浮かべている。マグルの首相と共に一貫して此度の事態収束に尽力した。彼の名もまた歴史に残るだろう。胸に、かの偉大な魔法使いに因んだ緑のリボンをあつらった金の勲章が飾られた。
絶え間なく降り注ぐ歓声と賛辞と裏腹に、胸の内は虚ろで空々しい。
禁じられた森から姿をあらわしたケンタウロスが弓をつがえ一斉に矢を放つ。マーピープルの奏でる歌声が湖面を揺らす。勇敢さを称え、語り継ぐ。死者のために。生者のために。奇妙なまでにその光景は葬儀に似ていた。一際高く聳え立つあの黒い塔の頂上で、鎖に繋がれている彼のことを思った。再び相見えることはないだろう彼に、いまや望むことはただひとつだ。願わくば……
私は目を閉じる。
杖の一振りですべての駒が配置につき再び動き出す。駒が進んでいく。打ち破り、蹴散らす。足元には死体が転がるだろう。それらを越えて、越えて。あたり一面に屍を築きながら進んでいく。見据える遥か先に想定外のことが起きようと滞りなく事を運べるようでなければ優れた仕組みとは呼べない。重要なことはただひとつ。
決して負けないこと。勝ち続けること。
どちらからともなく声が重なり、変わりはないさ、と笑う声があった。格子模様を横切り、駒が進んでいく。ひとつの目的のために駒が進んでいく。炎がゆらめきながら空へと駆けていく。螺旋状を描いて白く輝きながら、高く高く噴き上がり──一瞬、不死鳥の形をとったかと思った瞬間、突如として消えた。あとにはただ静寂と、白い大理石の墓が残される。そんな幻をみる。
──君の持つ力は誰かを傷つけるためのものではなかった。
君に、この世界にはまだ君の知らないものが数えきれないくらいあるのだと思いつく限りの方法で伝え、傲慢にもそれが出来ると疑いもせず、失うことなくすべてを手に入れようと、伸ばした指先から君はすり抜け、決して私のものになることはなかった。
いつかの言葉を。机を挟み、いきいきと議論をたたかわせた日々を思い出す。鮮やかな日々を。善良な者が傷つき嘆くことのない世界を。いつの日か君とそれを見つけ、見届けるのだと疑わなかった。
あるいは今でも。こうして遠く隔たった今でも。
白と黒が交錯する盤上で、冠が地に落とされる日まで。
20151101