どこか遠くで雷が鳴っている。

 曇り空の下、両陣の先鋭達が入り組んだ陣形を組んでぶつかり合う。暗澹とした曇り空を背景に血の色をした競技用ローブが翻る。一様に真紅を身に纏った選手達が競技場を飛び回るさまはまるで炎が踊るようだ。ブラッジャーの猛攻をかいくぐり、体当たりにより相手の進路を阻む。目にも止まらぬ早さで叩きつけられたクアッフルを味方のキーパーが弾き返し、ゴールを死守する。空中で縺れ合い、しのぎを削り合う。身体全体で体当たりし、妨害をかける。脇腹に肘を食い込ませ、進路を保つ──互いに一歩も譲らず、試合の展開は完全に拮抗していた。

 嵐のようなせめぎ合いのさなか、痩せた色黒の選手が抜きん出た存在感と共にその渦中にいた。曲がった鼻にきりりとした眉、猛禽類のような印象の青年。競技場で起きているどのような変化も見逃さないだろう鋭いまなざしと強靭な手足。先日、ヴラトサ・ヴァルチャーズの現監督から激励と共に称賛されたばかりのその青年の名は──ヴィクトール・クラム。

 開幕が告げられてから早一刻が経とうとしていた。

 クラムは地上から30メートルばかりの空中で僅かのぶれもなく静止し、鷹のような眼で静かに競技場を見渡している。チェイサーが縦横に飛び回り、味方のビーターが棍棒を手に、不意を打つかのように現れたブラッジャーを防ぐ。敵のビーターが突進する鉄の塊を打ち返す。体当たりを受ける瞬間、箒に加速を加え応戦する──絶え間なく風が吹き荒れる中、ほんの一瞬、道が開ける。先行していたチェイサーが後方に合図を送り──聳え立つゴールポストの輪へと狙いを定め、各々が突入に備えて四肢に緊張を走らせたその瞬間だった。スコア・エリア近くの上空を飛んでいたビーターのひとりが突如奇妙な動きを見せ、続いて金属を殴打するような鈍い音が辺りに響き渡る。審判のひとりが気付いた時には遅く、すんでのところで意図に気付いた小柄なチェイサーが血相を変えて体当たりし、無防備な観客めがけて打ちかかる寸前だった鉄製の凶器の進路を僅かに変えさせた。ほんの僅か。しかしそのおかげでブラッジャーは軌道を反れ、幸運にも無人だった隅の観客席の縦一列を破壊するにとどまった。
 埃と木の破片が舞う粉塵の中、チェイサーがブラッジャーに下顎を砕かれ、落ちていく。


コツ。コツ。

 長靴の踵が立てる音が部屋を行き来している。
 石造りの床が立てる反響音は酷く寒々しく、先程から続く形式だけの説教が、部屋の中をよりいっそう空虚なものにしていた。注意と決まり文句の繰り返し。猫撫で声はいつものように滑らかで、しかし同時に詰問するような響きをはらんでいた。
「ヴィクトール」
 靴音は部屋の中を一周し、正面に来て止まる。

                       

 負傷者一名が担架に乗せられ競技場の外へと運ばれていき、審議の後、しばらくして試合の再開が決定された。不満の叫びが観客席から上がるも、すぐにそれを上回る歓声に打ち消される。反則も、それと知りながら試合を続行させるのもここでは珍しくともなんともない。
 ぽつり、ぽつり、と競技場のむき出しになった地面に水滴がしみこむ。

 雨が降り始めようとしていた。

 クラムはチェイサーの運ばれていった競技場の出口をずっと無言で見つめていた。その様子をあざ笑うように見ていた敵のシーカーはキャプテンに目配せすると、クラムに歩み寄り何事かを囁いた。

 審判に肩を叩かれ半ば無理矢理に引き離されてもなお、睨みつけるクラムの瞳は炎のようだった。


 返事をして顔を上げれば、そこにはいつもと変わることのない、形骸だけを取り繕った笑顔があるに違いない。この男の性質は既に幾度にもわたり目の当たりにしてきた。相手から意に沿う言葉を引きずりだそうとする時にこういう声音をする。それが演技でしかないということはとうの昔にわかっていた。何にもおいてもこの、
 抜け目のない両眼が物語っている。
 口を噤んでいると何を納得したのか、ああ、と朗らかに男は続けた。

「無論、彼らの反則は明らかだ。卑劣極まりないやり口だ。あの者達のことならお前は何も心配せずともよい。我々が然るべき処罰を与えるとも」
 コツ、コツ。

「だが、今回のようなことが続けば流石に私もお前を庇えなくなるのだ」


 笛の音を合図として、選手達は地を蹴り再び空へと舞い上がった。
 どうやら敵はクラムの動きを徹底的に抑えることに決めたらしい。味方はただでさえ優秀なチェイサーを失っている。逆転の機会を期待株であるシーカーに賭けているのは明らかで、その焦りは敵に完全に読まれていた。
 先鋭がクラムの周辺を固め、絶えず視界を妨害する。その上ブラッジャーが執拗にまとわりつき、持ち前の優れた飛行技術をもってしてもクラムはそれらを引き離すことが出来ないでいるようだった。好機とばかりに敵が次々と得点していく。拮抗していた筈の試合はたちまち八〇点もの差がつけられた。おまけに激しさを増してきた雨によって視界は最悪で、状況はまさに絶望的といえた。クアッフルがまたしてもゴールを通過した。
 ほぼ同じタイミングで、クラムが一気に箒を加速させ、ついに妨害を振り切った。

 突然、敵のシーカーが大声で何かを叫んだ。
 激しい雨音にかき消され観客席からは何も聞こえなかった。雨粒を含んだ強風がその場にいるすべての者の視界を奪い──続いて観客の目に飛び込んできたのは、あろうことか両チームのシーカー同士が空中で取っ組み合う姿だった。
 クラムが体勢を崩した。


 それだけは覚えておくように、と言外に告げて背を向け、気のいい叔父のような振る舞いを続けながら、男は再び室内を歩き始めていた。
「そういえば、先日の件だが──」


 降り注ぐ雨粒をも凌ぐ速さで、真っ直ぐに地面へと落ちていく。


「知っての通り、夜間の見回りは六年生の役目だ。したがって、だが。さしあたり、お前がその並外れた正義感と強靭さを発揮するべき事柄は他にあるのではないかな? たとえばこれは私の提案だが──」
「教授」
 調子よくまくしたてる相手を遮ろうと、知らず語気が荒くなる。
 男の目が細められた。


 ──体勢は、崩れたのではなかった。
 試合のさなかにシーカーが箒の進路を定め一線に突き進む理由といえばひとつしかない。怒号と共にキャプテンから指示を飛ばされてようやく、敵の大柄なシーカーもクラムの目的に気付き、慌てて後を追う。
 だが遅すぎる。
 なにしろクラムの動きには些かの狂いも躊躇いすらもないのだ。鷹のような俊敏さを伴い、地面を目指して更に加速していく。そのまま片手を伸ばし──地面に鼻先が触れるかと思われたその瞬間、クラムは誰もが思いもしなかった行動に出た。箒の先を上に向け、上昇に転じたのだ。クラムを追尾していた敵のシーカーはというと、標的と定めていたスニッチが影も形もないのに驚く間もなく勢いよく地面へと激突して転がり、数メートル離れた先のぬかるんだ地面で動かなくなった。観客席から悲鳴が上がる。一体何本骨を折ったのか、弱々しく身じろぎしたきり、巨大な体躯はぴくりともしない──その様を見た瞬間、雷のように脳裏をよぎったのものがあった。かのポーランドの選手が使っていた大胆な技。両手を箒から放し、周囲から喝采で称えられる勇姿。成人ですら不可能と思われるような離れ業を、十代の学生が披露してみせた。高揚が喉をついて叫びとなり迸った。
 観客席の興奮はそれだけでは終わらなかった。
 呆然とする敵のビーターとチェイサー、キーパーの脇を疾風のようにすり抜けたクラムは、遥か上空で瞬いていた黄金の輝きをしっかりとその拳に掴んでいた。
 腕を高く上げ──だがその顔は少しも笑ってはおらず──勝利に陶酔した様子もなく、ただあの炎のような瞳で無表情に地上の一点を見つめていた。


「話を遮るからには相応の理由があるのだな、ヴィクトール。何故あんな真似をしたのか、ようやく言う気になったか?」


 その理由はすぐに明らかとなった。
 地面に転がりながら呻いている大柄な選手のもとへ、無言のままクラムが大股で歩み寄っていく。近づいてくるクラムを見るなり、選手は悲鳴を上げて逃げようとした。努力もむなしく競技用ローブの胸倉が掴まれ──拳が振り上げられた。

 一転してへつらうような視線を向けてきたそいつの胸ぐらを掴み殴り飛ばした。巨大な図体に短く刈り込んだ頭髪は暗闇の中でも見間違えようはなく、躊躇する理由はなかった。目を離した少しの隙に杖を出して呪いをかけようとした。夜の校舎で出くわすのは三度目だった。手加減をしてやる必要も、理由もない。捻り上げた腕の感触はシーカーをつとめているとは思えない程軟弱で、勝負にすらならなかった。

 腰を抜かして倒れたそいつは石造りの床を這いつくばり、どうにか立ち上がるとほうほうの体で逃げ出した。残った者も次々と続き、ほどなくして自分ひとりだけが静寂と共にその場に残された。
 杖先に光をともし、壁を照らし出す。探すまでもない──儀式めいた忌まわしい三角、内側に嵌め込まれるように描かれた真円、円を垂直につらぬく縦棒。


 祖父は50年前、グリンデルバルドに殺されました。
 あいつは祖父を侮辱しました。
 そう告げた瞬間に男の顔から作り笑いが消えたのを見て、いっそう神経質に山羊髭を撫で始めた様子を観察して──この教師が過去一度投獄された後、恩赦を受け釈放された身であることを思い出した。

 部屋に沈黙が下りた。







 ゲラート・グリンデルバルド。
 今からおよそ50年前に台頭し、魔法界に暗い影を落とした悪名高いかの魔法使いは、前世紀の終わりにここダームストラングに学んだ。在学時から闇の魔術への傾倒は著しく、振舞いは常軌を逸していたという。6年次に複数の同級生を相手に傷害事件を起こす段になってようやく、事態を重くみた学校側から退学処分を受けた。
 結論からいって、当時の教員と理事達が下したその決断はあまりにも遅すぎたといわざるを得ない。
 放校されて僅か数年の後に、グリンデルバルドは軍を立ち上げることとなる。徐々に確実に勢力を広げ、誰もがその危険性を認識する頃には支持者の規模は膨大な数に達していた。魔法族を優性種、マグルを劣性種と決めつけた過激な主張に基づく圧政は多くの者を苦しめ、意に沿わぬ者を捩じ伏せ、自由を奪い時には死に至らしめ──悪行は止むことを知らないかのように続いた。

 1945年、今世紀最も偉大な魔法使いと評されることになる者によって、終止符が打たれるまで。

 本来ならば極刑に処される筈だったグリンデルバルドは、皮肉にも自ら築いた監獄ヌルメンガードで鎖に繋がれることとなった。重罪人に対する前代未聞の処遇。この決着に至った経緯は他でもない──グリンデルバルドを一対一の決闘で打ち負かし捕縛した人物、アルバス・ダンブルドアの進言があったためである。長きに渡る暴虐と混乱をおさめた功績はそれ程までに大きく、歴史に残る偉業を果たしたことは誰の目にも明らかであり、法廷の下す決定ですら、影響を受けることは免れなかった。


 アルバス・ダンブルドア。
 銀色の長い髪と髭をたくわえたダンブルドアは、マグル擁護派の中心人物として広く知られていた。
 公平にして平等。誰からも愛され慕われる老人。慈悲深く、分け隔てない愛を注ぐ。いかなる罪を犯した者にも更正の機会を与える。異例のことと戸惑いながらも、最後には多くの者がその行いを讃えたのも無理からぬことだった。
 眩い光が法廷に満ちた。

 強すぎる光に、結局一度として、声を上げることは許されなかった。

 忘れもしない、トライウィザード・トーナメントが開催された折、赴いたホグワーツで目にしたアルバス・ダンブルドアは、名声と数々の経歴に恥じない人物だった。聡明にして博識。眼鏡の奥の瞳は穏やかながら底知れない雰囲気を漂わせ 、上辺だけではない確かな実力を感じさせたものだった。
 あの老人は紛れもない善人だ。行いがそれを証明していた。
 だからこそ、思わずにはいられなかった。
 この男が下した慈悲によって、数え切れない犠牲者を出した争いの元凶にして、数多くの者達を拭えぬ罪の道へと引きずり込んだ男は、自ら造り出した監獄の中で生きている。
 祖父は死に、祖父を殺した者は生きている。
 生かされ、生きている。
 今も。
 この瞬間にも。


「この先もし、あの男が日の光を拝むようなことがあれば」
 怯えたような男の目と目が合い、考えるより先に言葉が口をついて出ていた。
「俺が殺します」

 部屋に再び沈黙が下りた。







 いよいよ終わりが近いのを彼は悟った 。耳鳴りはひっきりなしに続き、指先の感覚は既になく、傍に落ちている筈の杖を拾う余裕すらない。もう助からない。それでもなお、目の前に立つ男を睨みつける。背が高く骸骨のように痩せた姿はまるで死神のようで、否、死神そのものだった。この男はこれまで何人もの命をなんの躊躇いもなく刈り取ってきた。自分がまだ辛うじて生きていられるのは気まぐれか、それとも──いずれにせよ。気の遠くなるような時間拷問を受けてきたが、彼は口を割るつもりはなかった。
 依然として相手の口元には笑みが浮かんでいる。視界がぐらりと揺らぐ。彼は両親と妻のことを思った。頭上で杖を振り上げる気配がした。彼は生まれたばかりの息子を思った。もう出会うことのない人々のことを思いながら、彼は死んだ。

 祖父は英雄だ。

 夢の中で父が泣いている。泣いている父を抱きしめて母が泣いている。亡骸を囲んで泣いている。知っている顔、だが見覚えはない。違う、実際に会ったことがないだけで見覚えはある。だがやはり実際に会ったことはなく、当然ながら言葉をかわしたこともない。それでも間違いなく、愛する人達が愛した愛すべき人だ。計り知れない程の恩情がある。果たすべき責任がある。目を見開いて事切れている抜け殻は紛れもなく、最期の瞬間まで英雄であった祖父の姿そのもの。

 私達に出来ることは何もない。

 父の、母の嘆きがこだまする。
 だからこそ、思わずにはいられないのだ。
 あの男さえいなければ、あなたがこんな冷たい土の下でこんなに冷たくなることはなかったのに。



 ヴォルデモートが倒れた同年、グリンデルバルドが獄中でひっそりと死んだことを知る者はごく少数だ。ヴォルデモートの死を大きく華々しく報じる陰で、各地に燻る狂信者達への影響を考慮に入れてか、かつて史上最悪の闇の魔法使いと恐れられた男の死は短く紙上に記されるに留まった。

 グリンデルバルドは誰に最期を看取られることもなく、死んだ。死因が仔細に報じられることはなかった。真相を巡り様々な噂が飛び交い、しかしいずれも憶測の域を出ず、こうして月日は流れた。

 いずことも知れぬ地に葬られたのだろう。再び生きた者として名を目にすることはない。

 それで終わりだった。


 祖父は死に、祖父の時が動くことはもうない。命を奪われた日から二度と動くことはなかったように。憎しみが消える日は来ない。弾圧され、肉親の命を奪われた大勢の者達の嘆きが消える日は、無念が晴れる日は来ない。

 墓の前で報告を終えた青年は、手にした記事を破いた。散り散りになった紙片は吹き起こった風に浚われ、瞬く間に視界の外へ見えなくなった。




20141012