物語はこのようにして始まる。

蝋燭が投げかけるひかりが樫のテーブルをやわらかく照らしている。
【修正】のリストに頁番号を書き加える。続いて珊瑚色をしたヴェラムの右端へ、慎重に記号を書き込んでいく。
記載を要する項目は修正箇所、修正理由、改善案。集積された情報は執筆者の目を経、また校正者のもとに戻され精査される。要求されるのは早さではない、正確さと緻密さ。組み版を作るまでの気の遠くなるような作業だ。膨大な時間がかかる。何年――あるいは何十年。納得のいくものが仕上がるまで紙上での校正を繰り返し、こうして古きは新しきに塗り替えられていく。
 巡る季節の中でひとつの命が葉をつけ、花をつけ、実を結ぶように。

"ハナハッカを刻んで煎じたエキスにモーリュと乾燥したプランジェンティンを加えることで強い癒しの効果がもたらされる。"ペンを走らせる音が途切れなく続くなか、やや唐突さを持って投じられた指摘に答えるのは初老の婦人の声だ。経験から培われた洞察は深く、正しい答を弾き出す。確かに、この国の古い表現では秋をそのように記す。"プランジェンティンは──" "夜にのみ開花する性質を持つ。そのため、月明かりのもとで採集する必要がある…"
 隣とテーブルの向かいでは予想通りの攻防戦が繰り広げられている。
 こうなってしまうと両者共に退かない。泥沼だ。普段はほとんどといっていい程感じさせないのに、やはり彼らはこういうところが面白いくらい似ている。助け舟を出すのはもう少し先にしよう。なにしろ、時代の流れに対応出来るよう流行表現や俗語を見つけたら都度指摘するよう告げたのは他ならぬ彼女自身なのだから、結論は最初から決まっている。
 
 言葉は時代と共に変化する。
 
 しばらく沈黙した末にバグショット女史は溜息をついて杖を振った。羽ペンがふわりと浮き上がる。紙面に書き出された文字は──要修正。
 ささやかな勝利がまたひとつ手の内に。
 椅子の背越しに掌を叩き合わせた感触に気をよくしながら再びペンを取り、緩んだ口元を引きしめて、再び校正作業へと集中を戻す。

 僕達ならなんでも出来る。
 そんな確信が生まれたのは一体いつのことだっただろう?

 一際強い風が吹き抜け、窓の外の木々がざわめきを立てる。いずれもここではない、あずかり知らぬ外の出来事で、決して壁の内側を脅かすことはない。掲げる明かりが行く手を照らし出し、亡骸を覆う盛り土が蠢き、生前と変わらぬままの故人がよみがえる。
 死の目を欺き眩ます。
 影ひとつ残すことなくこうして死はこの世から消え去る。幸せな幸せな夢。
 物語の最後はこうでなくてはならない。でなければそれまでの悲しみや苦しみに何の意味がある。

「コーンウォールのティンワース、ヨークシャーのアパー・フラグリー、イングランド南海岸のオタリー・セント・キャッチポール」
「退屈かい?」
 すっかり合言葉のようになってしまった単語の羅列を指して問うと、唇の端をゆがめる気配がした。
「いや、そうでもない」
「よかった」
「毎日何かしら書き物をしていないと休み明けの考査の点数に響く」
「休暇の予定は…」
「無期限」
 笑った。それでようやく作業を始めてから何時間も経過していることに気づいた。既に日は落ちて、窓の外は黒々としている。
「もう帰った方がいい。ばあさんの要求にいちいち付き合っていたら身が持たなくなるぞ」
「そんな風に思ったことはないよ。君の大叔母さんには昔からよくしていただいているし──それに、」
 今になって観察されていたことに気付く。
 ただそれだけのことで。インクにペン先をつけ、紙に押しつけて引く、それだけのことがとてつもなく困難になる。
「……これだけの大著の誕生に関われるなんてそうそうないからね。むしろ感謝してるよ」
 ゆっくりと息を吐き出して、ペンを置く。確かにもう作業にはならない。
 
 いつのことだったか彼が語った言葉を思い出す。民衆。群集。人々。
「アルバス。連中は君が考えるよりずっと考えなしで愚かな生物なのさ」
 細かな切り屑がテーブルに散っていく。先端にすべらせる刃の扱いは見事なまでに正確で、みるみる内に書き味の鈍ったペン先が整えられていく。黙って見ていると彼はそのまま続けた。
「ただの雑談みたいなものさ。…連中ときたら成果そのものに目がいきがちで、到達するまでの過程にはほとんど関心を払わない」
「具体的にいうと?」
 掌の上で回したペン先がくるりと輪をかたちづくる。角度が気に入らなかったらしく先程とは逆の面を削り出しながら、彼は続ける。
「魔法史上はじめて 『ヒトたる存在』を定めたのは?
 ──勿論、グローガン・スタンプだ。子供だって知っている」
 この国の歴代の魔法大臣を務めた者のなかでも根強い人気のあったグローガン・スタンプ。彼が魔法界におけるヒトの定義を「法を理解し得る知性を有し、立法にかかわる責任の一端を担うことができる生物」と規定したのは今世紀初頭のこと。ヒト、ゴブリン、エルフ。魔法界に存在するありとあらゆる種族に法律上の定義を与え、明確な区別をほどこした。その恩恵は計り知れない。
「だが」
 息をふきかけて、粉状の切り屑をよそへやって終わり。
「この法律がどんな背景のもとに生み出されたかという話になると、話は別だ」
なあ、考えてみたことはあるか。スタンプのやつが任期のさなかどんな板挟みにあったのか。どんな苦渋の決断の末にこの法案を捻り出したか。それらすべてを把握している人間がどれだけいるか。

「制定からまだ100年も経っていないにもかかわらずこんな有様さ」
「偉大なことを成し遂げたとしても、すぐさま忘れ去られてしまうなら──」
 静まり返った部屋にやけに声が響くようだった。
「僕達は何を支えにすればいいだろう」
「簡単さ。もっと忘れられないようなことをすればいい」
「次はどこから放校されるつもりだい?」
 彼は椅子に掛けたまま振り返っていつもの不敵な笑みを見せた。
「もっと君好みのやつさ」

 それから彼が語ったことによれば──歴史はすべてを凌駕する。
 人の生は短く、人の営みは途切れることなく続いていく。絶え間ない流れは年表に始まり年代記を経て歴史に至る。彼の指先が導くのは頂上を示す点、その先に続く未来にほかならない。
死を手の内におさめた彼のもとひとつに束ねられて、誰も恐れることはなく、嘆くこともない日が。いつか必ずやってくる。
「──無敵のグリンデルバルドとダンブルドア」
 彼の使った言葉を無意識に繰り返していた。
 頬が高潮していくのを止められない。
 僕達は同じ未来を想像している。その確信は、思い返せばこの日に生まれたのだ。
ふたりで組み上げた礎を足がかりに歩み出す。
「ガンプの元素変容の法則、ゴルパロットの法則」
 過去の功績と既存の法則のその先へ、足を踏み出して一歩ずつ高みへ。
「ワフリング提唱の基本原則」
 より高い目的へと歩を進める。
「どうかな。さすがにそれは、ちょっとやそっとじゃ埋もれたりしないだろう」
「わからないぞ」
 隣で彼は心底愉快そうに言う。
「100年後に世界がどうなっているかなんて、誰にも確かなことは言えない。
 アルバス、君にもだ」
「君もだろう」
「勿論さ」
 言葉と裏腹に、表情は盤上を高みから見下ろすような不遜さに満ちていた。
 彼独特のあの大仰な仕草で肩をすくめてみせるのがおかしかった。君にわからないことが僕にわかる筈もないのに。
 僕達は手を取り合って更なる高みへと駆けていく。可能性を秘めた種は地面の下で誕生の時を待っている。芽吹いた種は瞬く間に背丈を伸ばし、花が開かれる。実は結ばれる。季節は巡り、歴史は築かれる。より強く、眩く、光輝くために。

 より善きもののために、すべては変わる。


夢だ。
そんな夢を見ていたし、彼も見ていたから。
やがて来る実現は約束されたものであって、疑いすらもしなかったのだ。

去来するのは火に投じる寸前の躊躇いだ。
指先から滑り落ちていった。炎を上げ崩れていった。
朝日が差し込む頃にはすべて焼け尽き、僅かな紙片も残らなかった。
そのせいに違いなかった。
時折、あの夏が本当にあったのかすら、わからなくなるのは。



20141229